Weekend 2004 October (5)



 10/30(Sat)-31(Sun) Scranton,Gettysburg

 当初この週末は、近場に紅葉キャンプに行くつもりであったが、天気予報があまり芳しくなく同行者もキャンセルとなったため、急遽遠出旅行に出かけることにする。行き先は、Yの大好きな『機関車』がたくさん展示されているSteamtownことScranton, PAだ。
 夜中の2時半に起床、急いで荷物を詰め込み、そして寝ているYを車に移して、3時半に出発とする。急に起こされてぐずっていたが、『シュッシュットレイン、乗りに行くよ』、と行ったら何やらにやにやしながらいつのまにか寝てしまった。どんな夢を見ているのやら。
 I-80をひたすら東進する。Yは、機関車に乗れるということで、ハイになっている。2年前にNew Yorkに行った時はこの道も運転がしんどかったが、何と言うことも無く目指すScrantonに9時過ぎに到着する。この周辺はアパラチア山脈の古い地層の間に、大量の石炭・鉄鉱石が産出されたために、多くの産業が発展した地域なのだ。もちろん現在でも産出はされている場所はあるそうだ。石油・石炭・鉄鉱石が産出されるということで、19世紀のアメリカの発展を支えたのはPensylvaniaだと言っても過言では無かろう。
 町の玄関口の古い駅前には、駅ホテルが聳え立っている。町の中心部から線路を挟んで反対側に、目指すSteamtown NHSはある。到着して目的の蒸気機関車がたくさんあることに、Yは『ばんざ〜い!
 ここは蒸気機関車の修理・整備を行う施設があった所で、回転台と円状の修理施設が保存されている。そして、多くの蒸気機関車が展示されている。
 展示はしっかりしたもので、蒸気機関車のパワーの源、歴史などを勉強していると、あっという間に時間がたってしまうことであろう。急いで展示を垣間見た後、10:30からのTobyhannaへの搭乗に向かう。この季節は予約無しでいけたが、紅葉真っ盛りの季節や、1月の雪の季節の搭乗には、必ず予約した方がいいそうだ。
 機関車は1917年製のCanadian National Railway No.3254、2-8-2の車輪構造だ。日本ならば、D-なんとかと分類されるものである。1957年に現役を引退している。我が子のこんな喜ぶ姿を見ると、はるばる運転してきた甲斐があるというものだ。
 搭乗は早い者勝ちになっているので、自分の好きな所をキープするといいだろう。我々は、左側がお勧めということでそちらに席をキープした。乗客は50-60%といったところ、10月半ばであれば、もっと一杯になっていたことであろう。客車も1930年に作られた古いもので、窓の開かないCuyahoga Valleyのものとは異なり、雰囲気もいい感じ。
 我々はTobyhannaへの遠出をしたが、時間の無い人には、Short tripというのに搭乗するといいだろう。こちらは、1923年製のCanadian Pacific Railway No.2317、4-6-2の車輪構造だ。日本ならばC-なんとかと分類されるもの。1959年の引退だ。ちょうど我々の隣のラインを往復して走ってくれた。蒸気を吹き上げる機関車を見ていると、機関車トーマスを見慣れているせいか、機関車同士が会話をしているように感じられるのは、私だけではないであろう。
 11:00にScrantonを出発、僅かに紅葉の残る谷筋を走り、1時間強の機関車の旅を楽しむ。途中にはトンネルもあり、石炭の臭いが妙に気持ちいい。(窓を閉めないと、大変なことになる。)
 程無くTobyhannaに到着、ここでみんな思い思い昼食とする。ここに回転台があるものと思っていたのだが、それは無く、蒸気機関車のお役目はここまで、帰りは同じ道をディーゼルが引っ張ってくれる。そう、蒸気機関車は長距離をバックすることが出来ないのだ。
 蒸気機関車の整備をする人、運転室に潜り込む人(Y)。客車の配置換えを見ていたりしたら、あっという間に時間はたってしまった。
 15時前にScrantonに帰着、レンジャープログラムも豊富であるとともに、すぐ隣にはTrolley Museumもあるので、マニアには一日あっても時間が足りないであろう。
 我々はここから更に東に向かい、Upper Delaware Scenic and Recreational RiverにあるRoebling's Delaware Aqueductを見に行くことにする。

 さて、Aquaductとは何か、であるが、これは運河を通る船を川を越えて渡すためのものである。19世紀の高い馬力の蒸気機関車が発明される以前は、船による物資の運搬が盛んであった。しかし、燃料としての石炭の需要は高まっていた時期である。ここPennsylvaniaの石炭を、New Yorkに運搬するために、Delaware and Hudson Canalは1825-29年に建設された。鉄道にその運搬の役目を全て託すまでの70年の生涯であったが、私はこの時代の流れ・技術革新に翻弄された運河に、産業の発展の原点を見る思いで非常に興味を覚える。日本ではそういった産業発展のステップを経ずして、開国とともに技術が津波のように押し寄せてきただけに、日本人の私にとっては非常に新鮮なものであるのであろう。Aquaductは立派に再建されたもので、内部は自動車が通れるようになっている。

 川自体は流れのあるカヌーを長い距離楽しめる所であり、大都市周囲の憩いの場といった雰囲気だ。ここには小説家のZane Grey Museumもある。
 更に東へ少しだけ向かい、州境を越えてNew Jerseyに入る。目指すはNJの最高峰、その名もHigh Point 1,803ft.(550m) だ。NJに入ってからHigh Point SP内を道標に従って行けば、山頂はすぐである。山頂にはMonumentがあるのだが、事前情報通り補修工事工事中であった。あいにくガスがあって展望は望めなかったが、晴れれば、西への展望は素晴らしいものであるようだ。Yはしっかりと登って来れる様になり、頂上で『ばんざ〜い!』
 夕暮れ迫る中を、Delaware Water Gap National Recreations Areaに向かう。先程の下流にあたるのだが、ここまで来ると、比較的どっしりとした川になってくる。ここもカヌーで思い思いの場所でキャンプしながら下ると、面白そうだ。

 日も沈んでしまったので、Delawareでのハイキングは断念、夕食をどうしようかと考えると、先程のScrantonで日本食の店を見かけたのを思い出した。そこでこの町の中心部にある、OSAKAという寿司屋に行くことにする。味はまあまあ、値段もまあまあ、聞くところによると、この町に住んでいる日本人はいないそうだ。お客としての日本人の我々も非常に珍しいとのことだ。
 さて、今夜の宿はどうしようかとI-81を西に車を進めたが、いつの間にやらYもチャイルドシートで爆睡してしまい、あいにくの雨とガスに、私も急激に睡魔に取り付かれてしまった。そこでHarrisburg近郊のSAで、後部座席をフラットにして寝袋にくるまって仮眠(というよりも完全に睡眠)することとする。

 昨晩は夏時間の終了であったために、1時間余計に寝ることが出来た。起きると昨日の天気が嘘のように晴れ渡る"Great Day"であった。味噌汁とコーヒーを沸かして、簡単に朝食を済ませる。
 今日の目的地は、これも前から行ってみたかったGettysburg National Military Parkだ。南北戦争のにおける、事実上の『関が原の合戦』にあたる戦いが1,863年7月1-3日に行われたことで知られている。まずはVisitor Centerで情報収集、Lincoln Memorial等を見学する。
 落葉はピークを迎えている。気持ちいい青空の下、Soldier's National Monument等を見学する。ちなみに、ここに埋葬されているのは、当初は北軍の兵士だけであったそうで、今の強いアメリカに見られるような一つの国家としての形態を取り出したのは、これ以降である。
 南北戦争は、軍事的に優秀な南軍が緒戦を制していったが、戦略的に優秀であった北軍が長期戦となるにつれて徐々にその経済力をバックに反撃していった戦いであった。そして、その転換点でもあり最大の激戦地になったと言われるのがこのGettysburgの戦いである。北軍97,000人中死傷者17,750人、南軍70,000人中死傷者16,914人、特に7/3のPickettの突撃は無残なもので、1時間に5,000人以上の死者が出たことで知られる。戦いはこの7/3に終了し、南軍の撤退になるのだが、くしも7/4にはミシシッピ川のVicksburgも陥落し、南部の敗退は決定的なものとなっていくのだ。
 Cycloramaにも行ってみたが、単に絵画があって英語で説明してくれるだけで、ちょっと拍子抜けしてしまった。その後、北軍が抑えていたCulp's Hillに行って、Observation Towerに登ってみた。日本の戦場にもいくつか行ってみたが、地形をうまく活かした戦いが多かったのに対して、ここはなだらかな地形が多く、ちょっとした丘の様な地形が多い。しかし、この僅かな地形の変化を活かした北軍の陣形は、いかにも納得させられてしまう。ここには、いくつかこういったObservation Towerがあり、いろいろな博物館もあるので、英語力があるのであれば歴史の勉強をしながら、ゆっくり過ごせる所であろう。
 南軍の死者26万人、北軍の死者36万人という5年間の戦いは、アメリカ独立後の最大の危機であったが、その犠牲があったからこそ現在のアメリカがあるのだと思う。
 ここでは3時間くらい滞在して、Clevelandに向かって車を進めることとする。アメリカでは珍しいトンネルなどを通過してI-76を西進する。Yは、一人で歌を歌ったり遊んだりしたり、眠たくなれば自分でふとんを被って寝てくれるので、非常に助かる。
 家に帰るには少しだけ時間があるので、これも前から気になっていた、Allegheney Portage Railroad National Histolic Siteに行くことにする。現代の感覚では信じられないことではあるが、運河を巡った船が、鉄道を使って山を越えたというのだ。

 話は1825年のNew YorkとErie湖を結んだErie Canalの開通に始まる。これにどんどんお客をとられているPennsylvaniaとしては、その西方への運送の手段として、運河とRailwayを組み合わせたものを考案し建設を進めたのだ。しかし、東のPhiladelphiaと西のPittsburgの間には、高いAllegheny Montainが聳え立っていた。そのためこの山の麓までは、運河および鉄道を敷設し(この時代の機関車は、非常に馬力の小さいエンジンであった)、この山ではインクラインを敷設したのだ。驚くべきことに、運河を巡った船はそのまま鉄道に乗せられて山を登っていったのだ!

 Yはここでも機関車に会えて、『ばんざ〜い!』
 ちょうどこの場所は、このMain Lineの最高高度にあたる。牽引用のロープ(事故もあり後にワイヤーに変更)を引っ張るシステムが保存されている。ちなみにこの当時のレールは、鉄の使用を最小限にした木と鉄との組み合わせであった。この当時の写真などは残っていないのだが、船が山を登っていく様子は想像しただけで面白いものであったと思う。
 パワフルな蒸気機関車が登場し、Allegheny Montainもその機関車が超えるようになった時、このMian Lineも23年の歴史に幕を下ろしたのだが、この劇的な19世紀の技術革新と産業発展の狭間で忘れられてしまいそうなこういった交通手段にも、光を当てようとするNational Park Serviceの試みは、非常に面白いものであると思う。ちょうどこのルートは現在でも重要なルートになっているのか、二階建てコンテナを満載した貨物列車を力強くディーゼルエンジンが引っ張っていた。交通の発達を実感できる訪問であった。

 今回の旅行は、私の大好きな交通史の勉強を十分に楽しむことが出来た。ちょっと『おたっきー』ではあるかもしれないが、ちょっと寄り道がてら行ってみるのもいいのではないだろうか。
 美しい夕焼けを見ながら、家路を急ぐ、、、というのも今日はHalloweenなのだ。車の中で、『Trick or treat』の練習をしっかりしておいたので、帰宅後すぐにBamboo beeになって出撃することが出来た。(3年連続でBamboo beeなので、来年は別のになるからね。)ちなみに、上のかぼちゃは我が家作。
 毎年思うのだが、こういったイベントにかけるアメリカ人の情熱には、尋常ではないものがある。日がどんどん短くなってくるせいなのか、それに比例してクリスマスに向けてのライトアップも盛んになってくる。節電なんて気にしない地下資源の国、アメリカがここにはある。


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