Weekend 2004 March (2)
3/10(Wed) Univercity Circle |
今日のCCJRCの練習は、Univercity CircleのCleveland Museum of Art南側の池で行う。一周500m弱で、お昼のトレーニング等にもいい所だ。妻子はその間、美術館で御見学。水曜日は21:00まで開館しているので、都合がいい。周辺は、いよいよ春がやってきたという感じで、花も咲き始めていた。 |
その後、恒例になっている『中華の会』に出席。今日は熊コーチお勧めの中華屋さん。評判通り、結構おいしかった。Yは、『Fish, fish !!』、と御満悦の様子。 |
3/13(Sat) Zanesville→Dresden |
週末はキャンプに行きたかったのだが、Clevelandは積雪があったこともあり、Y先生に教えて頂いた近場の町に観光に向かうことにする。 |
行き先は、Clevelandから南に2時間弱のMuskingum Countyだ。IS-77S→IS-70Wと走って、US-40を通って、まずはNational Road Museumへ向かう。Museumは小さいので、見逃してしまいそうだ。周囲には、古いマイルマーカーも保存されている。 |
今回の目的の一つは、西部開拓への大動脈的役割を果たした『US-40』だ。
オハイオの地図を見た時、その中央部を東西にまっすぐ貫く、一本の線があるが、それはこの国道だ。古くは、1790sにOhio River沿いにあるWheelingに入植していたZaneという人物がMuskingum
RiverとLicking Riverの合流する土地(後にZanesvilleと名づけられる)を開拓したのだが、ここからWheelingに戻る安全な道路を切り開いたことに始まる。以後、1803年のOhio州の制定とともに西部への交通需要は広がり、街道としての重要性は増していった。ちなみに1803年にはフランス・ナポレオンからのLoisiana購入、1804年のルイスとクラークによる西部探検隊がSt.
Louisから出発しており、以後、アメリカ西部開拓は加速度的に進むことになる。古くは幌馬車から、近代は自動車と、このUS-40が西部開拓に関与した役割は計り知れない。そしてその役割は、現在ではIS-70が担っているのだ。(IS-50,
60が無いだけに、IS-70の役割は非常に大きいのだ。) |
館内は3部構成になっており、一つはUS-40に関する展示、一つはZane
Greyという小説家の展示、もう一つはZanesville特産の陶芸に関するものだ。Muskingum Riverには、砂・粘土・鉄分を多く含んだ土のため、そういったものの作成には向いているらしい。 |
Museumを西進し、Zanesvilleに向かう。道は真っ直ぐで青空がまぶしい。今までいったいどれだけの人が、この道を不安と希望を胸に西を目指したのであろうか。 Zanesvilleの町自体は小さく、アメリカの田舎の雰囲気が漂うのんびりとした町だ。 |
ここの唯一の名物は、Muskingum RiverとLicking Riverの合流点に架かるY字橋だ。Overlookからは、このY字橋と町の概要を望むことが出来る。周辺は公園になっており、長い滑り台を見つけたので、Yを遊ばせる。 |
このY字橋は、もともと1814年に作られたもので、当初は通行料をとっていたそうだ。そして、現在のものは1984年に建造された5代目のものだ。詳しい橋の歴史については、ここを見て下さい。Muskingum
River本流には堰堤があり、左岸には運河がある。ここはOhio州で、現在でも運河の運用がされている唯一のもので、Ohio
Riverから10番目のLockがある所だ。周辺の観光は、ここを参照して下さい。無料でパンフレットを取り寄せれます。 |
Muskingum
Riverの最後の閘門、Lock 11に行ってみる。ここにはキャンプ場もあり、釣りにはいいかもしれない。もし学生時代にOhioにいたならば、AkronからOhio
River(〜New Orleans)の手漕ぎカヌーにチャレンジしたことであろう。 Lockは簡単な作りで、誰もOperatorはいなかった。来た人が自分で制御するものなのかもしれない。 |
次の目的地である、Basketの工場である、Longerberger
Homesteadに行く。ここには、世界最大のBasketがあることでも知られる。Yは、『アップル、アップル!』、と言ってジャンプするのだが、届くはずも無い。 この会社の成り立ちであるが、Longerberger familyが1896年にDresdenの町に住み着くことから始まる。J.W. Longaberger(創業者の父)は、1919年にBasket工場に就職、しかし会社は大恐慌で倒産してしまう。製紙会社に再就職するものの、side workとして、細々とbasketを作っていた。その後、12人の子供のうちのDaveが、父の作ったBasketを売ってみたところ、すぐに売れることに気付き、1976年にお店を出したことに始まる。これも、運河の水運がもたらした産業であると言えるであろう。 |
工場内は見学出来るのだが、午前中で仕事を終わってしまうので、殆ど人はいなかった。平日の午前中に行くのがいいと思う。$60で、自作も可能だ。おみやげ屋もたくさんあるのだが、値段の高さにはびっくりさせられる。しかし、日本から来られた人にはお土産用にはいいかもしれない。我々は、オリジナルのスプーンだけゲットして、撤退する。 |
近隣の町、Dresdenに行ってみる。ここも、水運で栄えた町である。ここは小さい土産物屋さんが多いが、どれも高いものであった。 |
DresdenからOH-16を辿る。このOH-16沿いにはOhio-Erie運河があったので、朽ち果てたLockも何箇所か見ることが出来る。そして、Coshoctonにある、Rascoe
Villageに向かう。残念ながらVisitor Centerは閉まっていた。ここも運河の水運で賑わった所で、1960sに町並みを再建された観光地である。レンガ建築がいい風情を出している。近くにはCanal
Tourもある。またお土産屋さんもたくさんある。ちょっとお店をのぞいた後、2時間弱の運転でClevelandに帰着する。 観光地としては、それほどでも無いが、Ohioの歴史・交通に興味がある私には、非常に面白い旅であった。 |